「ぶたのゲーム」というタイトルのゲームを制作しています。
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> ぶたくん
とくになんら特殊能力もないし、跳躍もできないし、資格ももってない、学歴もない。剣も盾も装備できないし、スライディングもしないし、しない。できない。技も閃かない、術も覚えない(そもそも覚える気もない)、
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> ぶたくん
弾、ビーム、ボム、ミサイルの類も出ない。出す気もない。特になにかやりたいこととかもない。すなわち、彼は特筆すべきことのないただの「ぶた」であり、家畜である。
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> ぶたくんの基本パラメーター
ぶたくんはなんら超人的なスキルを要さないだけではなく、小心者で、からだが弱く、不安を感じやすい。心臓も弱い、ようだ。
そのせいだろうか? ぶたには権威主義的な傾向があって、「みんなが言っているからよさそう」「偉い人が言っているからよさそう」といった基準で物事を考えがち。自分のあたまで考える強さがないから、ひとたびピンチな状況になると現実から目を逸らしがちだし、「私は悪くない」などと自己防衛的な態度をとって消耗しがち。状況を打開しようとやる気を見せるよりも先にからだが固まってしまったり、鬱気味な気分になってしまう。
それがぶたくんである。
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> さる夏の日のぼたくん
> 不安が強いため、権威に弱く、人が言っていることをそのまま間に受けてしまいがち
しかし、そのことで彼のことを責めたり、正論を言ってみたり、「現実に向き合え」と叱責してみたところで、なんになる? ぶたくんの心臓に負担がかかり、鬱になってしまうだけである。つまり、なんら状況は好転しない。
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> 悩みが多く、心臓に負担がかかり、死亡してしまうぶたくん(写真はイメージです)
ぶたくんには悩みを相談できる友だち、と呼べる存在はいるのだろうか……?
彼は物理的に、文字通り、柵の内側で暮らしている。その柵は、ぶたでさえその気になれば簡単に乗り越えることのできる程度のしょぼいものであるが、もちろん、ぶたには「外へでる」という発想がない。遠くの景色に目をやれば、緑の山々、白い雲、青い空がぶたの瞳には映っている。しかしそれらはぶたにとってはただの背景でしかない。
おそらく、彼の住むリアルワールドには、様々な種類の身体、思想、哲学を有した動物が生息しているはずである。しかし、ぶたは家畜だから、そうした世界の広さとは隔たられている。
「そんなしょぼい柵、その気になれば越えることができる、君はただ柵を越える気がないだけだ」言うのは簡単だ。しかしぶたは、外にでるなんてとても考えられないし、考えたこともない。
柵の内側、隔たられた世界の内側にいるのは、同類のぶたたちである。ぶたがぶたに悩みを相談しても、ぶたの人生(ぶた生)になんらかの変化を生じさせる可能性は極めて低い。ぶたがぶたに「わかるよその気持ち」とか共感を示すことがせいぜいだ。ぶた生は、このまま過ぎていき、ぶたの可能性は、それと気づかないまま徐々に閉ざされていくに違いない…
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> 非常にくそどうでもいいことで悩むぶた
しかし、私は今回、 #ぶたのゲーム のなかで、この「ぶたくん」に試練を与えるつもりだ。
べつに、ぶたのゲームに「オチ」をつけようだとか、ぶたが試練を克服していく物語で感動を呼ぼうだとか、ぶたのゲームをおもしろくしようだとか、そういう考えからじゃない。そういう背伸びした企画・編集的な考えはむしろ、 #ぶたのゲーム というゲームからは排除したいと思っている。
そもそも この #ぶたのゲーム というプロジェクトは、一向にゲーム制作を完成/公開までもっていくことができない僕が、すぐに完成する小さなクソゲーをまず1つ完成させよう、と考えたことから始まった。
なにかゲームでもつくってみようかな、と思い立ったことが何度もあったが、しかし、まともに完成させることができたのはたったのひとつしかない。ゲームをつくっていたはずなのになぜか [mruby処理系](https://github.com/hadashiA/MRubyD) をつくっていたり、 #Unity 向けライブラリをつくっていたり、気がつくと脇道に逸れているというのも理由のひとつではあるが、完成させられない理由はたぶんそれだけではない。ゲームをつくっていると、世の中では当たり前に受け入れられていることでも、自分の手で画面や紙の上に展開しようとすると、納得できないことが次々に現れる。「なぜモンスターは、モンスターだから。という理由だけで殺害されなければいけないのか?」とか。それらにひとつひとつ、答えを出さないと、前に進めない気がするのだが、自分が納得する答えを出し、それをゲームの企画に取り込んでいくのはとても時間がかかる。理屈を重ねればいいってもんでもないからだ。
あるとき、こう思った。そういうことはすべて表面的な理由であり、ゲームをつくろうとしても完成しない理由は、本当は、完成しようとする気がないからなんじゃないか。完成したところで、もしもそれがくそつまらなかったり、まったく誰からも見向きもされなかったら、というかおそらく100%に近い確立でそうなるのだが、それに直面するよりは、無意識のうちに、なんかつくってる状態をだらだらと続けているのではないだろうか。
次にこうおもった。仮にそうだとすると、
「なんら能力も魅力もない、くそみたいな、しょうもない、誰にも好かれない、なんの才能もない、誰も期待しないぶた(家畜)しか登場しないゲームにすれば、すくなくともとにかく完成まではもっていけるに違いない。だって、自分もぶたになんらおもしろさを期待していなから」
それが #ぶたのゲーム である。
つまり、ぶたくんの、ある面、ある部分は、おそらく僕のことである。僕なんてもんは、所詮はぶたくんであり、何者でもないどころか、言ってることとやってることがあんまり一致していないし、やっていることは所詮は柵の内側を一歩も出ていない。それにべつに気がつかないし、特に気がつきたくもない。
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> ぶたくんとは自画像でもある。私はぶたくんから出発しなければならない
いったいどれくらい昔のことなのか、検討もつかないが、あるとき人間(もんきーの進化系の生き物であるという説と、神様がつくった生き物であるという説がある)が、森にいた「いのしし」を捕まえ、縄でぐるぐる巻きにし、まるでフォカッチャとカフェラテをテイクアウトするみたいに、住処へ持って帰った。それが「ぶた」という動物の始まりだと言われている。
歴史を遡れば、「ぶた」は昔、「いのしし」をしていた。今でこそ「ぶた」と呼ばれている彼らは、昔はまったくちがった姿をしていた。
「猪」をしていた頃のぶたくんは、とても勇ましく、直情型で、自信にあふれ、深く険しい森の中をわが物顔で縦横無尽に駆け、尽きることのない闘争心を持っていた、と言われている。いのししは自分の力を信じていたし、率直に自分の意見を相手にぶつけるし、「やる気さえあればなんでもできる」と考えていた。どうしようもない状況に見舞われても、死なない。鬱にならない。ところが、人間に飼われるようになってからというもの、いのししは、今の「ぶた」というものに変わってしまったのだという。
なぜか私はこのぶたという生き物の歴史に惹かれるのである。