## たぶん
世の中に「シャングリラ」と名づけられた曲が一体いくつあるのかはわからないが、この地球上にはきっと千、もしかしたら万を越す数のまったく知らない「シャングリラ」というタイトルの曲が存在しているのかもしれない。
私は音楽家では全くないが、たぶん、たぶんではあるが、いくら一曲の音楽に始まりがあって終わりがあるとはいえ、すべての曲が犬小屋のように部品を組み合わせ、「まあちょっとここ隙間空いてるけど図面通りだからいっか」、みたいなかんじでつくられているわけでは、きっとないんだろう。
客観的に確認してみると、自分の中のどの部分からこのメロディがやってきたのか検討もつかないし、なにを見出しかけていたのか記憶が消失している。ところが、我に返ってできたものを聴いてみると、なんか知らんが、めっちゃ良い。この曲。
「もはやこれは「シャングリラ」と名付けるしかあるまい」
「うんうんそうだね」
と、いうようなことが、この世界では起きているにちがいない。
[シャングリラ - Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A9)
> 1930年代後半以後、ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義になった。
この地球上では、「理想郷」という言葉は「絶対に存在しない場所」という意味だとみんなが思っているし、なんなら、理想郷なんて空想の中だけにしとけ。と、ほとんどの大人は苦々しい顔をするだろう。所詮、理想というのは頭のなかにあるから理想なのであって、現実のものにできるわけがないし、もしできたとしたらもうそれは歪になっている。結果として、「なんとなく、あっちの方向に行きたい」という、たぶん、誰しもがもっている感覚と、その感覚が昂り、無意識がそれを求めてどっか走っていっちゃっときの「かんじ」が、「シャングリラ」という意味不明な言葉には託されている。
つまり、ふとした拍子に、鍵盤を叩いていた指先が、絶対的な終着点を求めて求めて自然に滑り、ああこの道をずっといけば、どこかに辿りつきそ。あ、もちろん、あまりにも遠過ぎて絶対に辿りつかないことはわかっていますが、でもいまはこの瞬間だけは、いけるところまでいくわ。でも今日はもう時間も時間なのでこのへんで終わっとけーー
ーーみたいな感じで生まれてくる曲に人は「シャングリラ」と名付けているんじゃないだろうか。それがやたら「シャングリラ」という題の曲がいっぱいある理由であってほしいと思う。
ここで最新のシャングリラを一曲、紹介しておきます。
[SHANGRILA - Jazzbois, Dom Beats](https://open.spotify.com/intl-ja/track/6pLsbmBUKVmTQonZ3d0sG7?si=4c399a829539467e)
## たぶん 2
いま住んでいる家の壁には何枚か絵を飾っていて、もっとも長い間、同じ壁の同じ場所にかかっているのは、ロドニー・グリーンブラットさん (パラッパラッパー/ウンジャマラミーのキャラクターデザインが有名)の描いた、サンダーバニーとシャイプープー、パラッパとタマネギ先生、その他の動物が一緒に載ってる大きめの版画。
何年も前、ロドニー氏が来日し、開催されたイベントで、一緒に写真を撮ってもらったり、ライブペインティングを見て感激なんかして、そのときに購入した。当時はお金がなかった、というか、お金の遣い方がわからなかったので、ものすごく迷った末に二万円弱くらいの版画を買ったのだが、今から考えると、たぶん、たとえどれだけ借金をしても数十万円くらいの直筆原画を買えばよかった、と思う。もしそうできていたら今とは全く違う人生を生きていたんだとおもう。だけどそのときは、たかが二万円出すのもすごく高い買い物だった。あれがどれくらい昔だったのか、正確な記録がないのだが、二万円弱で購入させていただいた版画は、今もずっと家の壁にかかっていて、初めてみたときの印象を発し続けているし、年月を経た結果、いろいろな気持ちになれる風景になっている。振り返ってみると、あのときから現在に至るまで、でかい絵を大枚をはたいて買ったことは二度となかった。
当時、ロドニー氏が間近で絵を描くのを見た。記憶が確かなら、真夏でもなかったとおもうけど彼は汗をかいていて、今思えば緊張していたのだとおもう。「サンダーバニーとシャイプープー」っていう絵本を著しているくらいだから、彼ののなかには内気な要素があって、日本で人気がでたからといって、パラッパラッパーのキャラばかりリクエストされても笑顔で応じ、人前に出て一生懸命ファンサービスを演じる、というのはすこし無理をしていたのか? と、なんとなく今思えばそんな気がするのだが、これは僕が勝手につくりだした記憶で、そんなことなかったかもしれない。とにかくそのとき、彼は色々な意味でとても簡単に絵を描いていた。考えたり悩んだりしてつくりだしているのではなくて、無限にいくらでも湧いてでてくる水をただ、ちょっと汲んでるだけ、っていうかんじだった。家にある絵をみると、ある地点からある地点へ止まらずに動き続けていく途中を切り取ったみたいな感じがあって。
## 進捗
- ぶたのゲーム
- けっこう進んでいるけどけっきょく色々つくりなおしている
- オープンソースライブラリ活動
- MRubyCS 修正いくつか。MRubyCS.Serializer は コア部分ができたので、 VitalRouter.MRuby v2 試作版をドッグフーディング中
来月こそは進捗をだしたい!